2013年9月3日火曜日

自ずと

最近知って気に入った言葉があります
「世間のためやの人のためやの、何のためやの、そんなの意識してやっていたらあかんよ。
 私も社会福祉でも施設でも、今、こうしてやってるわな、それは自分の気持に対して逆らわんと従っていく生き方をしているだけのことで、社会の人のためとか、そんなん全然頭にあらへん。
それを第三者から見たら、ええように言ってくれるだけのことや。
自分に対してね、一番忠実だったらええと思う。 奈良大倭矢追日聖法主」 

自分の気持に対して逆らわんと従っていく生き方は、自身の立つ足場であったり、自身という土壌を耕すことであったりするように思う。
自分の足元からとはこういうこと。
そこに何が育つかは、育ってから知り、次につながるこれからを耕す。
笑われるものができるかも知れないがそれはそれ。
それが現在の自分だと謙虚に受け止めるしかない。
しかし、なぜだ?と向き合い、先人に学び、それから試行錯誤をおこなう。
それの繰り返し。

学びとは答えを与えられることではないはず。

責任が存在する一人称で語り他者を尊重する対話の場を設け続けることで心地良い居場所は形成されていくと考えます。
「一から多」の生命原理を意識し、「多」となるには「一」である自身の足元から、謙虚さを失うことなく育むこと。
自分の気持に対して逆らわんと従っていく生き方、根源に向き合い、
誰のためでもなく自身のために学び合う場となれば本望です

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