2013年9月13日金曜日


必然ではありますが非常に関連したお話だと思いました。
宗教家ではなく、哲学者だというところも面白いです。
当日までに是非一度ご覧になってください。
対談から得られるものが増え、反応が強くなると思います。

自分なりに要点と感じた箇所を時系列で書き出してみます

「相手に対する寛容の精神というものが大事」

これは、「対話」ダイアログをおこなう上でも同様に思います。
そして対話は社会構築において重要視されるべきだと考えます。
対談の間では、対談後に交流会と称した「対話の場」を設けてあります。

「人間の身体はやがては朽ちてしまう。
けれども、ヒトからヒトへ伝えられる真の法(ノリ)はいつまでも輝く」

「変わらぬもの」は、仏教では2500年前に「法」と呼ばれ始めた。
2,500年前のヒト「釈尊」が言った言葉が幾度の宗教弾圧にも関わらず現在まで伝えられてきた、守られてきた、死ぬことなく生きてきた。
その事柄から今を生きるヒトは真摯にそして謙虚に学ぶべきではないか、向き合う姿勢を持つべきではないかと思います。
仏教を信じる信じない、信仰宗教が違うとかそういうことではなく、他者の言葉、先人の想いとしてです。

「人間だけじゃなくてですね、山川草木まわりのものが何か関係を持っている」

この「自身と他との関係性」が、「 間 」という場作りの名称の由来です。
私は一人で生きていられるわけではない、ということ。
そして、現代社会において分断されたヒト・モノ・コトを有機化する場を作りたい、その間合いを大切にしたいとの想いがあります。
今の時点では、私はそれらを分断しているものはカネだと思っています。
それを出来るだけ介さない、そして道具や手段であるはずのそれが自己目的化しないよう心がけています。
そういった想いで動いているヒト同士がつながっていくことで、現世の生命力は増すと信じています。
「これが正しい、こうしなければならない」等と言うつもりはなく、自ずとつながっていくことが順序だと思います。

「釈尊は言った。私は自分がみなを導くなんて思ったこともない。」

謙虚さと、自身が人生の主体であることの大切さを感じます。

「およそこの世のもので、いつまでも破れないで存続しつづけるものというのは何もない。いつかは破れ消え失せるものである。」

ここに、虚しさや悲しさは微塵も感じません。
また、この真理をも科学で掌握できると考えることはヒトの傲慢に思います。
始まりと終わり。
持続可能な社会とはよく耳にしますが、
終わりを無くしては本当の持続は不可能だと考えます。
終わりがあって始まりがある。それによって持続は可能になるのだと。
ゆえに核燃料サイクルなんていうものは、人間の傲慢と言葉遊びに過ぎないと考えます。

「この変転常ない世の中では、まず自分に頼るべきである。
自分に頼るとはどういうことであるか。
自分はこの場合にどうすべきかということを、
その場合、その場合に考えることでしょう。
その場合に何を判断、決定の基準にするのか。
それは人間としての道、法、
インドの言葉でダルマと呼ばれるもの。
これを法と訳しますが、
この人間の理法というもの。これに頼ること。」

個人的に今回の対談で鮮明にさせたい中心です。
情報社会の中「何が正しいか」「どれが本物か」と社会の表層をいくら漂っても、
その「解」はないと思います。

例えば3.11の福島原発事故後、原発と向き合う際に改めて求められるのは、
戦後70年弱の価値観ではなく、2000年以上続くヒトの知恵からではないのか。
さらに悠久の時を経る自然の摂理からではないのか。と考えます。
しかし、何も学ばない姿勢のままオリンピック東京開催決定とお祭り騒ぎを起こして、
ことをどんどん進めていく姿は思考停止どころか思考放棄に見えます。

日本中がオリンピック東京開催決定を祝福している時に異を唱える者を排除しようとする場を生み出す手法(二項対立、白眼視)は、権力側の常套手段であると歴史から学んでいます。
福島原発事故後ドイツでは倫理委員会が立ち上がり、重々に議論され、そしてその意見が尊重され脱原発へと舵をとりました。
新聞の調査やパブコメで原発の再稼働反対、新設反対が国民の大半を占めたにもかかわらず、そこに目を向けず聞く耳を持たない日本とは大きな違いです。
結果云々よりも、異質なものに対する理解と寛容が乏しい姿勢は先人の知恵を愚弄していることと変わりありません。
なぜ東日本大震災と向き合わないのか。何も学ぼうとせず、次から次へと使い捨てをすればいいとでもいうような態度をとるのか。
ヒトが消費社会という環境を作り、消費社会という環境がヒトを作る、その連鎖反応は一個の命の価値を軽んじているように見えます。

「7年後のオリンピック東京開催が決まった以上、本気で原発事故に向き合わざるをえないであろう」
といったような声を、オリンピック東京誘致を反対していた人からも聞くようになりました。
しかし、いま見るべきものをみず、聞くべき声も聞かず、
今やるべきことをやらない人達がやるはずはないと思います。
そのことは、経済発展しても社会格差がなくならなかったどころか、押し進められたことが物語っています。
弱者切り捨て、誰かの犠牲の上、差別の上になりたった社会から「今」脱しようとしない限り、
先述のような淡い期待を持つ気にはなれません。

TPPを農業問題にすり替える人達は農業を数字で語りますが、
田んぼや畑には人間以外の多くの命があることは自明の理。
「土と草と稲」こんな単純な世界ではない。
じっくり目を凝らして見ていると、実に多くの小さな命がそこにあることがわかります。
そしてそれらが全て関係性を持っている。
いたらない自分自身とも繋がっている。

そこにある命が見えない人に、国の行方を語る資格があるようには思えません。
見えない、見ない、見ようとしない姿勢はそのまま排除の姿勢につながると考えます。
異質の排除、意見の排除、社会的弱者の排除。
今すべきことに真摯に向き合わない人に、その混迷を乗り切る舵はとれない。

開催決定にむけて、そして決定時にオリンピック東京開催反対の声をとりあげないメディアは存在価値のなさを原発事故報道に引き続き自身でさらけ出しました。

しかし、どれだけ現在の日本社会が末期だと感じても、
やることは3.11以前も以後も同じ、まずは自身の足元から。
その際に指針となるようなものが、
戦後もしくは明治維新か産業革命以降といった、
たかだか200年程度内で作られた価値観ではなく、
自然の摂理や、2500年以上生き続けている言葉の背景に存在するのではないかと思います。


以下、動画に収められた中村元氏の発言の一部書き起こしです。
「相手に対する寛容の精神というものが大事です。人類の歴史において多くの宗教が現れたわけですけれども、武力によらないで説得だけによって広まったのは仏教だけである。こういう考え方がですね、我々の祖先の中でも生きていたと思います。だいいち聖徳太子の憲法なんかにもはっきり出ております。現在でもこれは大切な心がけじゃないでしょうか」
「人間の身体はやがては朽ちてしまう。
けれども、ヒトからヒトへ伝えられる真の法(ノリ)はいつまでも輝く。
つまり、ヒトからヒトに真理が伝えられるわけでございましょう?
それはもう永遠の価値を持っているという意味なんでございましょう」
「本当の自己とはどういうものか。
誰でも人間はどこかの場所でなんらかの、いつかの時点で生まれてきたわけです。
必ず両親があったわけですね。
育ててくれるヒトがあった。
助けてくれるヒトがあった。
その助けてくれたヒトの数というのは無数でございます。
ただ、人間だけじゃなくてですね、
山川草木まわりのものがですね何か関係を持っている。
宇宙の彼方から送られてくる太陽の恩恵も受けているわけです。
宇宙にあるいかなるものも孤立したものではない、という思想。
その偉大なものを受けているということを自覚すればですね、
そこでその自分の生きる道はどうかということが、
自ずから明らかになって実現される」
 「今日になりますと、国々を越えた地球共同体というものを皆が考えなくてはならないというところまできていると思います。世界が一つになる場合に、異質的なものに対する理解と寛容ということ。
これは絶対に必要だと思います」
「釈尊は言った。
私は自分がみなを導くなんて思ったこともない。
また、みんなが自分を頼りにしているなどとも思わなかった。
自分はただ人々のよるべき真理。
真の生き方というものを明らかにした。
それだけなのだ」
「およそこの世のもので、いつまでも破れないで存続しつづけるものというのは何もない。
いつかは破れ消え失せるものである。」
「この変転常ない世の中では、まず自分に頼るべきである。
自分に頼るとはどういうことであるか。
自分はこの場合にどうすべきかということを、
その場合、その場合に考えることでしょう。
その場合に何を判断、決定の基準にするのか。
それは人間としての道、法、
インドの言葉でダルマと呼ばれるもの。
これを法と訳しますが、
この人間の理法というもの。これに頼ること。
「自己に頼れ。法に頼れ」
これが釈尊の最後の教えでありました」

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